昭和47年01月06日 朝御理解
御理解 第13節
「神は向こう倍力の徳を授ける。」
いよいよ今日から寒の入りで、寒修行が始まる。これは、いろんな信心だけではありません。ね、剣道とか柔道やら、皆さん達もやはり寒修行と言ったような名目で、いわゆる、日頃の稽古にも、一段と熱を入れられるという、修行でございます。毎朝こうやって皆さん朝の御祈念にお参りになる。別に毎日、朝の御祈念に参っておられる方達は、とりわけ、別に寒修行中は、こういう事をすると、いったような事でもないのですから、まあ、当たり前の事です。
または、普通は出来んけれどもまあ寒修行の間だけでもひとつおかげを頂こうというようにして、まあお参りをされる方達とあるわけです。暑いとか寒いとかと言う、言うなら暑い境に、または、寒い一番峠にいわゆる、暑い寒いを乗り越えてのそれぞれ修行をさしてもらうという事。言うならば、苦しい上にもう一つ、苦労をしてみろと言うのが、いわゆる修行であります。これは、夏の修行でも寒修行でも同じ事。ね、夏も、やはり一番暑いさかりの1時の御祈念に合わせてあの夏の修行がありますように。
寒修行もやはり、一番寒いね、朝の4時5時から皆さんがお広前に参集して、そして、いわゆる、信心修行、言うなら、御祈念修行と申しましょうか。ね。をなさる。とういうのは、ひとつ、それこそヌクヌクとして布団の中に入っておる事が一番楽ですけれども、いわゆるその寒の中に、寒い中に飛び出して神信心のいわば稽古をさしてもらおうと。ね、言うなら、自分から求めて寒い中に飛び込んで行こうと言う修行。
私はこの、何の稽古でもそうでしょうけれども、とりわけ信心は、その中に、例えばそれが火の中であろうが、水の中であろうがそれに飛び込んで行くという意欲です。ね。それが、修行だと思います。そこで、例えばそれに耐え得る力を鍛える。言うならば、辛抱力を作ると。と言うのが寒修行。そういう私は、ひとつの勢いとね、そういう潔さを持って神様へ向かう。神様は向こう倍力の徳を授けるとこうおうせられる。
そこでここで思われる事はね、その倍力の徳を授けると言われる事なんです。それでこれはその折角、なら寒修行に寒さをおかしてこうしてお参りになるので御座いますから、そのそういう形の上において打ち向かうと言う事だけではなくて、心の上にもです、神様へ打ち向かう姿勢というものがね、いるのであり作らなければならない。私は今朝ご神前で御心眼に頂きましたのがね、三枡。四角いのを三つ書いたのを三枡とこう言いますよね。枡の形の。これは歌舞伎の市川家の定紋なんです。
市川団十郎系統の人達の紋所なんです。三枡。屋号は、成田屋と言います。市川家。その事を頂いてどう言う事であろうかと、まあ思わして頂くんです。ははぁこれがです私はこの度の寒修行に皆さんが打ち向こうて来る。元気な心で何が何でもがむしゃらにでもひとつ、一月間の寒修行を成就さしてもらうぞ。又は全うさして貰うぞというその意気込み。で一生懸命寒さ、眠さをおかしてお参りをして来る。是は形の上の事ですわね。ですから、その内容というものがです、ね。
心の状態が神様へ向かわせて頂く。しかも倍力の徳を授けると仰せられる、徳の受けれれる心の姿勢というものが大事なんです。例えばその香炉ですね。香をたきます物。なかなか香炉には名品が多いです。良い物がだから、なかなかやはり陶器であろうが、鉄の物であろうが、ほんと高い物ですね。香炉というものは。私は香炉が大変好きですから、沢山頂いておる。いろんな形のを頂いております。
床の間にでも例えば、花はなくても香炉が一ついい香炉があれば、もうそれでそれこそ部屋の気品を作ると言うほどしに、香炉というものは何かそういうものをもっておる。勿論中には香をたくものなのです。ね。部屋いっぱいが香の香り、何とも言えん一つの奥ゆかしさというかね、心が清まるとか静まるような働きをします。だからと言うてです。例えば、ご飯茶碗ならご飯茶碗に香をたいたらどうでしょう。まっ、香りだけが目的じゃないのですね。香炉は。
だから所謂芸術家達がその香炉を作る為にはあらゆるその形の工夫をするわけです。いろんな形のがあります。気品溢れるのがある。ね、華やかさが一杯と言った様な香炉もある。まあだから、好み好みでございましょうけれどもです。ね、それがその形が良いと言うだけではなくてその中にやはり、香が所謂たき込められてあって、部屋中いっぱいに香の香りが漂うというのでなかならければ値打ちはございませんよね。信心修行も。私は今日その事を頂いてですね。信心修行もそうだと。
はあもう朝、早うからお参りをして来た。もう修行をして来た。これは言わば形の事なのです。ね。その中にです、いくとしたと言うかね、その香りと言うものが私は大事だと。香がたき込められておらなければならない。これを私は内容だとこう思うです。ね。その心の状態がです、そうです。でなかならければならない。ね、もう、朝参りをして帰ったらもう鬼の首をとったごと思うて帰る。はあもう、修行して来たと。
だからそれだけがです、例えば出来ましてもね、そりゃあ、そりゃあある意味で素晴らしい事なんです。けれども、問題はその稽古。ただ参るだけが稽古じゃない。参って稽古をして来るというのですから。何の稽古かって信心の稽古です。ね。ですからお参りをした。参って来る時と帰って来る時と言うのは、心の状態からして変わってくる事にならなければならない。その事をです、今日私はその、歌舞伎の市川家の定紋とか、ね、屋号とかをもってお知らせを下さったんだと思うですね。
成田屋。成田屋というのは、成就の成が書いてありますよね。成。田は田んぼの田です。ね、田んぼの田と言うのは、これは、おかげの受け物。徳の受け物。ね。受け物なしにはおかげは受けられません。いかに種を沢山持っておっても田んぼがなかったら出来ませんから。ね。一反よりも二反。二反よりも例えば一町持っておればそれだけ収穫も多い道理です。田というのをだから、ここでは信心、おかげのまたは徳の受け物だと頂かにゃいかんと思う。徳の受け物。
、そりゃそうですよね。お酒買いに行くでもてのひら持ってお酒下さいって言うたっちゃできません。今はもう、一升瓶、瓶詰めばっかりですからね。いいですけどね。昔はそうじゃなかった。やっぱりぼう徳利、二番半徳利、一升徳利で、徳利で。ね。徳利を持って行かなければならん。しかも、その徳利というのでもです。ね。油やら醤油やら入っとったやつはいくら濯いだっちゃもうだめです。
酒屋は入れちゃくれません。こりゃあんた、油の匂いがプンプンしよるじゃない。こりゃいかんですよと言うわけです。ね。醤油の匂いがしてもいかん。いわゆる中が汚れておってはいけないと言うわけなんです。ね。清めた物。綺麗な清めた徳利を持って行って初めて、それに一升なら一升、一升徳利持って行って、一斗下さいつったってこれはかなわん事なんです。願いだけは大きな願いを持って、ね、けれども、一升、例えば欲しいと言うのに、杯のごとある入れ物持って行ったって、こりゃ始まりませんよね。
だから、成田の田と言うのはそういう意味で、受け物。それぞれの受け物。だから大きなおかげを願い、ね、大きな徳を頂きたいと思うなら、やはり、自分自身が大きくなることの精進をしなきゃならない。もちろん心が大きく豊かになるというおかげを頂かにゃならん。だから、大きなおかげを頂きたいと思うなら、心がいよいよ豊かに大きゅうならなけりゃ馬鹿らしいわけです。いや、おかげを受けられないわけです。それで、豊かになる稽古をするわけです。
そこでです、なら豊かになろうと思うて、さあいっちょ豊かになろうと思うて、まあちょいとぐらいな辛抱出来るけれども、根本が豊かじゃないのですから、すぐ、言うならあらが出てくるわけです。二言三言は辛抱してこらえとるけど、もう四言五言になるともうこれがもてんごとなる。ね。中身が無いから。ほんとな、言うならば受けものがないからです。そこでです、そういう例えば受け物はです、私はその、市川家の定紋であるところの三枡のお知らせを持って下さった。
三枡の事だと思いました。三枡というのはね、真四角いのを三つこう書いてある。これを三枡という。そこでです、私はその三枡ということについてから考えてみた。ほほお、これは成田屋と言う事はおかげが成就するということ。ね。お互いに信心、例えば修行に、寒中修行によってです、受け物を作ると言うこと。ええですか。お参りをする。寒さの中に飛び出してくる。眠いけれども頑張って参ってくる。これは、形の上の修行ですよ。ですから、今日私は、ここんところを頂いてね、御理解第13節。
しかも神は向こう倍力の徳を授けるということを今日ここで頂かしてもらってね、13節というのは、私はすぐ感じた。ここで13日というのは、神の願いが成就する日と言われております。だから13日会には皆さん方が沢山集まって、神様の願いに応えての信心共励、または、信心の御用をなさるわけです。ように、ははあ、13ということは、今日は神様の願いが成就する事の為にという願いというものが立てならければならないなということです。自分の小さい願い。ね。
なるほど、自分の願いが成就するという、まあ、自分の願い事があるからこそお参りしよる。修行しよると言やあそれまでですけれども、信心も段々分からせて頂きますとです、これは、神様の願いというものが先に成就することによって、私どもの願い以上の願いが成就するということをです、皆さんは金光様のご信心さして頂く者はそこんところで分からなければいけない。
一人一人にかけられる神様の願いというものがある。その願いが成就することなんです。私ども一人一人の上に。だから私どもの、目先にどうぞ病気を治して下さい。この事が成就しますようにといったような小さい願いではなくて、ね、いわゆる神様の願いが成就する事の為の信心修行。ね。そういう生き方を行けば必ずお徳を受けるでしょう。ね、神の願い、自分の上に起きてくる
。例えば一つの難儀な問題であってもです、それがね、神様の願いが成就する事の為の修行であると悟らせて頂いたら、その修行は大変に有り難い物になってくる。私はその、三枡という事がです、ね、所謂有り難う御座いますと言う「ます」だと思うです。勿体無うございますと言う「ます」だと思います。お畏れ多い事で御座いますと言う「ます」である。ははぁこの三つのますを、お供えしなければいけないなあ。
今度の寒中修行の形ではない、中身、内容はここのところの、おかげを頂かなければならないなあと。この心を、整えさせてもらわなければいけないなあと。というふうに感じたのでございます。そこに、成田屋のおかげが受けられる。おかげの受け物が成就する。おかげの受け物が出来る。徳の受け物が出来る。ね、ただがむしゃらに参ってくる。なるほど、これでも有り難い。ね、なるほど、これも大修行。けれども、その大修行の内容である。そこで、んなら、今日からひとつ有り難うございます。
勿体のうございます。恐れ多いことでございますと、ならば言おう思うとして言える事で、まあ言える事なら出来るかもしれませんですね、口で言うだけじゃから。けれども、それをそう思うということはなかなか難しい事なんです。そこでお互いがそこんところを焦点をおいて、いよいよ有り難い、勿体無い恐れ多いと言う様なです、心の状態と言う。その心の状態を持って形が整うて来る。ね、いわゆる香炉じゃないですけれども、素晴らしい形の香炉の中に、ね。
それこそ香しいまでの香を放つほどしのおかげになってくる。部屋いっぱいが素晴らしい香の、いわゆる雰囲気と言うか、ね、信心さして頂く者が家の中に一人居らせて頂いたら、ね、家の中が治まる。家の中が何とはなしに春のような穏やかさと言うか、ね、というものが漂うというほどしの心の状態でありたい。家の中の状態で有りたいと思う。そういう受け物がいよいよ出来てくるところにです、私は倍力のここでは、おかげを授けるとはおっしゃっておられない。
打ち向かう倍力の徳を授けるとおうせられる。ね、その徳を受けさせて頂く。いわゆるご神徳なんです。人間は、いわゆるこのご神徳を頂かなければ、人間の信用、いや、人間のいわゆる幸福というものは絶対にあり得ませんです。どんなに巨万の富をもっておっても、どのように強い頑健な体を鍛えておりましても、ね、どんなにそれは、商売が繁盛いたしておりましても、人間の幸せには、条件ではありましても人間の幸せには繋がりません。幸せの条件ではあります。
健康な事も商売が繁盛する事も。けれどもならそれで人間が幸せかという事ではありません。もうほんとに金も物もいらんと言うごたる人が世の中には沢山ありますよ。この難儀がないならばと言う様な難儀をておる人が。ですから金や物やらじゃないって人間の幸せは。所謂ご神徳を受けるという事。天地の信用を受けるという事。いつも我が身は神徳の中にあるという実感。神様のご守護を受けておる私という自覚というものがです、心の中にいつもあって有り難い事じゃなぁ、勿体無い事じゃなぁ。
ほんとに信心も出きんのに恐れ多い事じゃなぁということになってくるのです。だからこの三枡というものを、私共の心の状態の中に頂くという事がです、とりもなおさず、人間の幸福だという事なんです。どうでしょうね。どんな場合であってもです。有り難いなあと。勿体無い。恐れ多い事じゃと、例えば言うておれれるとしたら、ね。そこでならそう思わしてもらおう、そう言わせてもらおうでは頂けんところに、いわゆる信心修行があるわけなんです。
昨日の朝の御理解の中にもありましたですかね。目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多いと。どんなにおかげの中に浸っておりましてもです、私共の心の中に、有り難いも、勿体無いも、恐れ多いもないならですね、そのものが、皆いやな事とか、困った事とか、ね、にしか見えないのですよ。それがだんだん、信心さして頂いておかげを頂いてまいましてです、ね、有り難い、勿体無いという心の状態が募ってまいりますとですたい、いわゆる本当な事が分るのです。ね。
暑くても暑さを感じない。寒くても寒さを感じない程しのおかげも頂けると同時にです。ね、その事がね、有り難いものとして見える。これは又の御理解にあります。信心する者は肉眼をおいて心眼を開けとおっしゃるそれです。心の眼を持って見るとそれをね神愛。神様の愛情の現れ。もうしかも止むに止まれん氏子幸せにせねばおかんという、止むに止まれん神様の願いが込められたそれなのであるということも分るね。だからねいわゆる、今日私が頂きました三枡と事だと。
有り難うございます。勿体のうございます。言うとりゃよかかというわけじゃいかんのです。それは嘘にでも、言うとりゃいいです。心じゃ有り難くなかっても、有り難うございます、有り難うございますと言いよるとね。やはり、段々有り難うなってくるもんです。けれども、それが本当の事が見えて、有り難うございますと言えるのでなからなければ、ほんとのものじゃない。私自身が助からない。
助かってない。ね。私自身がです、ね、いわゆる、本当の事が本当な事として分る為にいよいよ本気で本心の霊を磨かにゃいけんのであります、日々の改まりが大事であると言う事になるのです。限りなく美しゅうなりましょうという事になるのです。美しい心で見るとです、皆がいい人に見えてくる。美しい人になりますとです、ね、人が困った事だと言うておる事が有り難いとほんとの事が、事の真相がです、分って来るようになるのです。ね、本当の姿が見えてくる。
ですから私は思う、ね。神の願いが成就する。神の願いが成就すると言う事はそのまま氏子の願いが成就するという事でもある。その神の願いが成就する中にあるところの私の願いが成就するという事はです、もうそれは私共が夢にも思わなかったほどしの事が成就してくるんです。小さい一言、二言じゃないです。神様が下さろうとしておるおかげというものは、ね、とにかく計り知ることの出来ないほどしのおかげが頂けてくるようになる。それを御神徳。
いわゆるそれを、私共が倍力の、打ち向かう倍力の徳を授けるとおっしゃる、神に打ち向かうという心をまず作らなきゃいけん。姿勢を。形の上においては、寒い暑いは言わん。眠いけれども眠いを辛抱し抜くといったようなひとつの潔さといったような心がいる。例えば、寒さの中にです、ね、剣道なら剣道の寒修行に出る。行っただけでは何にならんですよ。ね。そこで寒中の中にです。
もうそれこそ一生懸命、なら竹刀を取っての稽古出来なければ、剣道の、剣の道なら剣の道の寒修行にならんです。お参りしたからもうこれでよか。寒修行は、今日は成就したのではなくて、そういう中に飛び出し、そういう中にお参りをさして頂いてです、本気で神様へ向かう姿勢を作らせてもらう。今日の御理解で行くなら、いわゆる、三枡を自分の心の中に頂こうと精進する。為には、どうあったらよいかということをです、どうあったら成田屋になれるか。
おかげの受け物が出来るか、成就するかということをです、ね、いわゆる、有り難うございます。勿体のうございます。恐れ多い事でございますという日々である為に。そんならそう思うと言うて、思えるもんでもないと言うところにです、自ずと有り難うございますが湧いて来る。どんなに考えても勿体無いことだと心の中から湧いて来る。その為に本気で私共がですね、自分自身を見極めさせて頂いて、成程こういう汚い心では有り難くならないはずだというものをです発見する。
練り出させて頂いて、それに取組んで改まっていく、磨いても行くと言う。自分自身がいよいよ美しゅうなってまいります。いわゆる我情我欲を離れて、真の道を見る、見よ我が身は神徳の中に生かされてあるとおうせられる。自分の心から、ね、我情我欲が取れていくに従って、本当の姿が見えてくる。どういう中にあっても、なるほど神様の御神徳の中に抱かれてあるんだな。御深慮の中にあるんだなという実感が、有り難い、勿体無い、恐れ多いということになるのです。ね。
ですからもう、これはもう信心修行の一つの条件としてです、まず、ね、奮い立つ心を持って教会参拝が出来る。出来たらまた本気で稽古をする。教えを頂く。そしてその教えに取組む。これが稽古です。ね、そこからです、今までかつて味おうたことのない新味溢れる生活が出来てくるようになる。信心の有り難さというものが分って来るようになる。いや、与えられてくるのである。有り難い。
その事を例えば寒修行に向かわせて頂く、例えば姿勢そのものがです、ね、神様が待ち望んでござる姿勢なのです。ね。同時に今日私が頂いております、成田屋とか三枡の定紋と言った様な事から、所謂その内容である所の姿勢を聞いて頂きましたですね。そりゃ家の布団の中であってもです、有り難うございます。勿体のうございますというのであれば、なるほどそれでもいいのです。けれどもそれは丁度、茶碗の中で香を炊いておるようなものです。おかしなもんです。
矢張り整うた形の、素晴らしい形の香炉に香が炊き込められて初めてほんとの香炉。または、香の炊く値打ちがあるようなもんです。折角させて頂くのですから。値打ちのある信心をね頂きたい。そういう修行にひとつ本気で取組みたい。寒修行のまあ初日にあたって、13節を頂いたと言う事をです。ね、ようするに神の願いが成就することの為に私共が修行するという事になるのじゃないのでしょうか。神様の大きな願いの中に、私共の小さい小さい願いは込められておるもの。
神様の人間の一握りといやあこれだけだけれど、神の一握りはどれだけあるか分らんと。久留米の初代が仰ったと言う事ですけれども。そのどれだけあるか分らん世界にです私共は、所謂無尽蔵と言うわけですね。限りのないおかげの頂けれるものは矢張り御神徳です。御神徳を受けなければ人間の本当の幸福はありえません。その御神徳を頂かせて頂く道を合楽では、朝に夕にもうこの事ばかりを説き続けておるわけですね。
どうぞ。